2022年度 考古学部会発表要旨
 
一、東広島市長者スクモ塚第一号古墳第六・七次調査について

 広島大学 宇野真太朗

 東広島市西条町に所在する長者スクモ塚第一号古墳は、古墳時代前期後葉に築造された古墳である。広島大学考古学研究室では二〇一六年度に第一号古墳の測量調査(第一次調査)を実施し、二〇二〇年度には発掘調査を開始した(第五次調査)。その結果、墳丘裾部には埴輪を据え、礫を配置していることが判明した。
 第六・七次調査では、当該古墳の外表施設として石列と埴輪列を確認でき、墳丘に断割りをいれたことにより、墳丘構築方法についてもおおよそ明らかになった。また、表採・出土遺物である埴輪は突帯の形状・口縁部形態・細部調整などからいくつかの群に分かれており、芸備地域での埴輪の編年研究における重要な資料になるといえる。
 以上の調査結果から、西条盆地では当該期における古墳において、このような外表施設はみられないことから、本古墳が当地域における有力古墳として重要な位置を占めることが判明した。



二、三次市高杉町浄楽寺第一二号古墳出土遺物の調査成果

 広島県教育事業団事務局埋蔵文化財調査室  村田 晋

 浄楽寺・七ツ塚古墳群は美波羅川左岸の低丘陵上に展開する大規模古墳群である。中小円墳を中心に計一七六基もの古墳が集合し、その多くが竪穴系埋葬施設をもつ特徴から、横穴式石室の普及前に造営が開始された、いわゆる初期群集墳と評価される。
 史跡指定まで受けた古墳群だが、発掘調査されたのはわずか五基に過ぎない。その成果も公表されたのは概報程度の内容に留まっているし、未調査の古墳に至っては、墳形や規模を除く大部分の情報が不明であるなど、古墳群としての正当な評価を与えるには情報が足りない現状を指摘せざるを得ない。
 古墳群で最大規模の円墳、浄楽寺第一二号古墳は発掘調査された数少ない古墳の一つである。出土遺物は現存し、その品目までは知られているが、調査後七〇年近く経つ現在も、遺物個々の詳細な検討は行われておらず、写真・図面が未公表のものさえ含まれている。古墳群の評価に向けて、まずは埴輪、鉄器を中心に当該古墳の出土遺物を調査した。成果を報告して基礎情報を提示し、出土遺物から古墳の築造時期を考察する。


三、松永湾岸古墳群の分布調査より

 広島市市民局文化スポーツ部文化振興課  山岡 渉

 松永湾は瀬戸内海の中央、沼隈半島の北西基部に位置する。潮位の差が多く、干潟等が広がる穏やかな湾、つまり天然の良港であり、津之郷谷同様に「潮待ちの港」であった中世以降港町尾道が成立するまではその機能を担っていたと考えられた。周辺には縄文時代から中世の貝塚、弥生時代から中世の製塩遺跡と瀬戸内海の交流の拠点性を示す遺跡が所在し、五〇m級以上の前方後円墳・造出付き円墳や導入期から終末期の横穴式石室墳も築造されている。特に古墳群は松永湾を通じて瀬戸内海交通を押さえた首長墓と推定されるが、周辺は市街地化が進み、いくつかの古墳は既に消滅していることから、古墳群の性格・内容を明らかにするために地誌・地理学・地質学的な視野や聞取調査(民俗学的視野)等各種調査を実施した。その結果、古墳群は古墳時代海域に近接し築造されていること、山陽新幹線開通前の航路網等の精査から、同湾が海上交通の要衝であったことが裏付けされた。

 

四、庄原市亀井尻瓦窯跡の発掘調査

 松江市文化スポーツ部埋蔵文化財調査課  永野智朗

 亀井尻瓦窯後は庄原市上原町に所在する奈良時代の瓦窯跡である。一九六四年の分布調査の際に発見され、翌一九六五年に広島大学考古学研究室を中心とした調査チームによって発掘調査が行われた。調査の結果、やや特異な形態をもつ平窯一基を検出するといった成果を挙げている。備後北部地域を中心に分布する寺町廃寺式軒丸瓦の分布圏における数少ない窯跡の検出例であり、一九六七年には県史跡にも指定された。このように遺跡の重要性は広く認識されていたものの、正式な報告書は未だ刊行されておらず、検出された平窯や出土した軒丸瓦以外の情報については大部分が不明なままとなっている。 
 本報告では調査当時の図面や写真などを用いて調査区配置や調査の経緯といった発掘調査の基礎的な情報を整理し、次いで平窯や出土遺物について若干の検討を加えることで備北地域の仏教文化・瓦生産体制における当遺跡の位置付けについて考察を試みる。

 

五、備後国府跡の発掘調査成果について

 府中市教育委員会文化財室 石口和男

 備後国府跡は、広島県南東部の府中市市街地に位置する。一九八〇年代以降、広島県教育委員会や府中市教育委員会による備後国府の場所を明らかにするための発掘調査が実施され、市街地内の東西約三㎞、南北約一㎞の範囲に、七世紀末頃から一三世紀にかけての遺跡が確認されている。このうち国府関連遺跡の様相が明らかになったツジ地区と金龍寺東地区の二地区が平成二八年に国の史跡に指定され、さらに令和元年に伝吉田寺地区が追加指定されている。
 金龍寺東地区では、備後国府に伴う宗教施設もしくは饗宴施設と推定されている、九世紀から一〇世紀まで機能した苑池をともなう瓦葺礎石建物跡などが確認されており、金龍寺東地区で今年度に行なった発掘調査の調査成果を報告する。


 

六、宮島における門前町の形成について

 廿日市市教育部生涯学習課 妹尾周三・順田洋一・東口茉佑子・和田崇志

 廿日市の沖に浮かぶ宮島は、周囲約三〇㎞の小島である。厳島神社の社殿が現在のようなかたちとなったのは平安時代末で、この当時、島内にはまだ人びとの居住はなかったと伝わる。その後、神事や仏事に関わる建物が建ち、一四世紀以降は次第に神社への参詣者の増加も相まって、門前町としての町並みが形成されたと考えられている。
 この町並みは、神社の東側、千畳閣と五重塔が建つ塔之岡丘陵(宮崎)を境とし、西町と東町に分けられている。このうち西町は、厳島神社をはじめとして、大願寺や大聖院、また社僧や社家などの屋敷地が広がっている地域である。菩提院遺跡や中江遺跡などからすると、その初見は一二世紀後半から一三世紀前半にさかのぼり、緩斜面を造成し、屋敷地として利用されていたことが確認されている。
一方、東町は、町屋の間口が狭く、切妻平入りの伝統的家屋が立ち並んでいる地域である。門前町とともに港町としても栄えたとされ、本格的な町並み整備は一六世紀頃からと考えられているが、不明な点が多い。今後の発掘調査で明らかにしていきたい。


七、藤が迫城跡の発掘調査について ―土木施設災害復旧事業―

 東広島市教育委員会生涯学習部文化課 津田真琴

 藤が迫城跡は中世に多く築かれた山城の一つである。調査期間は令和三年六月から約四ヶ月間、発掘調査面積は山城跡の一部の約一二〇〇㎡で、中世のものと考えられる山城の土塁、郭、土坑などの遺構を検出した。また郭の下層からは、弥生時代の竪穴住居や土坑、貯蔵穴、柱穴状ピットなどが検出された。
 このほか多数の石が乱雑に詰め込まれた土坑から人骨が出土しており、放射性炭素年代による年代測定で室町時代後半の人骨である可能性が高いことが判明した。人骨に伴う遺物が無く、詳細は不明だが、土坑内の石の詰められ方が乱雑なことから、埋葬土坑(墓)ではなく死体遺棄のための土坑とする見解もある。  
 また、検出した弥生時代の住居跡と中世の城跡のほかに、別の時代の遺構・遺物が確認されなかったことから、尾根部に築かれた弥生時代の集落跡の平坦地を中世になって山城として再利用し、造成し直した地形であることが判明した。


 

八、広島城跡と福山市内の石垣等の石材加工痕跡について ―矢穴の規模に注目して―

 広島市市民局文化スポーツ部文化振興課  山岡渉

 二〇一六年度に福山城三之丸地点(現東横イン)で実施した第四七次調査において、石垣石材の属性調査として、矢穴・刻印の計測調査等を実施した。この調査で矢穴法量の変化が時期差の可能性があることが福山城跡・鞆城跡との比較で明らかになったことから、二〇一七年度に本会において報告したがその続編である。
 その後、深水砂留、遍照寺跡・遍照寺山城跡、福山城跡天守閣移設礎石、神辺城跡、史跡朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内、御領古墳群(総称)等で実施された各種調査時において継続的に調査を実施し、二〇一八年度終了時には福山市内における織豊期から近現代までの矢穴規模の変化を概ね把握することができた。詳細は別に報告予定であるが、今回は予察的に広島城跡の矢穴規模について既往の資料からデータを抽出し、当該変遷と比較してみたいと考える。


 
九、広島市中区 広島城遺跡スタジアム地点の発掘調査

 広島市文化財団文化財課  兼森帆乃加

 広島城遺跡スタジアム地点は本丸の西に所在し、近世には馬出及び屋敷地が位置していた。廃藩置県後は広島城全域が兵部省(のちに陸軍省)の管轄となり、調査範囲には主に輜重隊の施設が立地した。昭和二〇年の原爆投下により旧陸軍施設は被爆し、戦後は応急住宅(バラック)が建築された。
 後世の土地利用により遺跡全体に攪乱があるが、調査区内では旧陸軍施設の基礎等が検出された。輜重隊では輸送のため馬が飼育されており、厩・馬繋杭跡とみられる遺構や蹄鉄・馬具等の鉄製品が出土した。建物の改修・増築等の痕跡も確認され、軍施設の推移をうかがうことができた。
 近世については礎石や屋敷区画と考えられる溝、井戸跡等の遺構が検出され、遺構及び包含層からは陶磁器類・瓦・土製品等が出土した。遺構の性格等については、整理作業を通して現在検討を進めている。


 
十、史跡福山城跡の発掘調査と整備について

 福山市経済環境局文化観光振興部文化振興課  唐津彰治

 今年は福山城築城四〇〇年にあたり、本市では様々な整備を行っている。その中で、近年の福山城跡に関する発掘調査や史跡整備の取組三件について報告する。
 ① 二之丸南西に位置する神辺二番櫓、櫓台周辺は廃城後に宅地となり、石垣が抜き取られた。石垣復元のため、令和三年一〇月から令和四年一月にかけて発掘調査を行い、石垣の痕跡を検出した。
 ② 二之丸東側坂路周辺は、廃城後に石垣と盛土により宅地が造成された。この造成部を除却し、幕末の福山城の姿に近付けるために、令和三年度に発掘調査を行い、近代の盛土の深さを確認した。令和四年度には、調査の成果をもとに、実際に造成部分の撤去を行った。
 ③ 令和三年一一月から令和四年一月にかけて、御船町の道路舗装工事に伴い、福山城と瀬戸内海を結ぶ運河である入川の左岸の石垣が発見され、総長約五七mにわたって、石垣が良好な状態で残っていることが明らかになった。